目覚まし代わりに流れる軽快なジャズ。時計は朝7時を指し、渋々ベッドから抜け出してリビングへ。
26階の窓から差し込むまばゆい朝日が、ガラス越しに照らしてくる。ふと見下ろすと、プールではすでに1人の女性が爽やかに泳いでいた。
「今日も暑くなりそうだな」とつぶやきながら、シャワーを浴びてトーストとコーヒーで軽く朝食を済ませる。ブリーフケースと車のキーを手に、地下駐車場へと向かう。
そこに待っていたのは、ワインレッドのBMW 318i。
後部座席にカバンを放り込み、エンジンを始動。静かながらも芯のあるサウンドに思わず笑みがこぼれ、センターコンソールからサングラスを取り出して出発する。
向かうのは、高層ビルが立ち並ぶシンガポール中心部のオフィス街。そんな朝の一コマが、私のシンガポールでの車通勤生活の始まりでした。
シンガポール生活での車選びとその価格
1999年2月、私は2度目となるシンガポール勤務に単身で赴任しました。
新たな住まいは34階建ての高層アパート。その一角にはショッピングモールやレストランが揃い、敷地内にはテニスコートや広々としたプールまで完備された、南国ならではの快適な住環境でした。
地下2階には居住者専用の駐車場もあり、強烈な日差しを避けて車に乗り込めるのはありがたい。しかし、着任当初の私には、停めるべき車そのものがまだなかったのです。
もちろん「車を買う」ことは着任前から決めていましたが、そこには迷いがありました。
——それは「日本車にするか、欧州車にするか」「新車にするか、中古車にするか」という2つの判断軸です。
前回の教訓:高額なシンガポールの車事情
最初のシンガポール勤務は1993年。当時は家族も一緒だったことから、選んだのは新車の《日産サニー》。しかしその価格は、なんと日本円換算で約630万円。
国内なら160万円程度で手に入る車に、なぜここまでの価格差があるのか。ディーラーからの説明は次のとおりでした。
1⃣ 高額な輸入関税と税金
日本車であっても、シンガポールでは「輸入車」扱い。税金は約200%にも及び、160万円の車であれば320万円相当の税が上乗せされます。
2⃣ COE(Certificate of Entitlement)制度
さらに、車の購入にはCOEという“自動車購入権”を取得する必要があります。
これは車両台数を制限するために政府が発行するもので、価格は競り(入札)で決定。これが約150万円前後加わり、合計で630万円に。
中古車の価値も高く、売却時には満足
その《日産サニー》は2年後に470万円で売却。日本では2年落ちの車は半額近くまで下がるのが一般的ですが、シンガポールでは値落ち幅は比較的小さく、実質的なコストは日本の新車1台分程度でした。
この経験から「中古車でも資産価値は保たれる」と学び、2回目の駐在ではより慎重に車選びを進めることにしたのです。
やはりBMW、そして人気の318i
複数の選択肢を検討した末、私はシンガポールでの車として「欧州車」、しかも「中古車」を選ぶことにしました。理由はシンプルです。
まず、日本車も欧州車もシンガポールでは“輸入車”扱いとなるため、大きな価格差はありません。
そして今回は単身赴任。ファミリーの意見に配慮する必要もなく、自分が乗りたい車を自由に選べる状況だったのです。
候補はドイツのBMW318i
当時、現地で非常に人気があったのがBMWのエントリーモデル「318i」。ドイツ車ならではの質感とデザイン、そして欧州車らしい走りの楽しさが魅力でした。
しかし、海外での中古車購入は初めての経験。信頼できる車をどう探すか、品質をどう見極めるか、不安は尽きません。
不動産業者が紹介してくれた一台
そんなとき、私に高層アパートを紹介してくれた地元の不動産業者の社長に相談してみることに。彼自身もBMWに乗っていたため、中古車の情報を何か持っているのではと考えたのです。
すると1週間後、「個人売買で318iを売りたいという人がいる」との情報が届きました。社長はその人物との面会から試乗の手配まで、すべてを取りまとめてくれたのです。
仲介料の心配も頭をよぎりましたが、住まいの紹介やアフターケアでの実績から信頼を寄せていたため、そのままお願いすることにしました。
こうして私は、BMW 318iの試乗へと向かうことになったのです。
BMW318iの試乗、そしてオーナーに
約束の日。不動産屋さんの車で向かった試乗場所には、すでにそのBMW 318iが佇んでいました。
遠目に見た瞬間、そのワインレッドのボディとベージュの本革シートが目を引き、「これはただのエントリーモデルじゃない」と直感しました。
街中でよく見かけるシルバーやホワイトとは一線を画す、洗練された大人の雰囲気。カラー選びだけでも、この車の持ち主のセンスがうかがえるようでした。
オーナーからの説明とスペック
オーナーからは以下のような説明がありました。
- モデル:1997年式 E36・欧州仕様の輸入車
- エンジン:OHC直列4気筒 1.8L NA、最高出力115馬力
- 走行距離:約35,000km(シンガポールでは平均的)
- 装備:エアコン、CDプレーヤー付き、事故歴なし
- 希望価格:約600万円(COE込み)
実際の走行で見えた“真の姿”
シートを調整し、Dレンジでゆっくり走り出す。広い道路でアクセルを踏み込んでみると、「あれ、意外と加速は普通だな」というのが正直な感想でした。
期待が高すぎたのか、0-100kmの加速感にはそれほど驚きはありませんでした。
しかし、試乗を続けるうちに印象は変わっていきます。
- 直進時の安定感
- ブレーキング時の挙動の素直さ
- ロールの少ないコーナリング性能
- そして、FRらしい後輪駆動のしなやかな操作感
インチアップされた17インチタイヤのおかげか、走りの質感は上々。30分ほどの試乗では、蛇行や急ブレーキ、手放し走行による直進性チェックまで行いましたが、気になる異常は一切なし。
「これなら安心して乗れる」と思えるだけの完成度でした。
最終的な決断と購入までのプロセス
試乗後、一度持ち帰って検討。迷ったのは、よりパワフルな6気筒150馬力の「320i」でした。実は、あの不動産屋さんが乗っていたのがその320iだったのです。
しかし予算内で状態の良い個体は見つからず、最終的には318iの購入を決断。不動産屋さんの仲介で少し値引きしてもらえたので、その分は感謝の気持ちとして彼に支払い、ついに地下駐車場に“自分の車”が加わったのです。
BMW318iのオーナーになってみて
名義変更などの手続きには約1週間を要しましたが、その間、不動産業者が貸してくれたカタログや輸入車関連の雑誌でBMW318iの情報を深掘りしていました。
BMW318iとはどんな車なのか?
調べてわかったことは以下の通りです:
1⃣ 3シリーズの歴史とモデル概要
- BMW 3シリーズは1975年登場の初代「E21」から始まり、私が購入した「E36」は1990年に登場した3代目。
- ボディサイズが拡大され、2代目E30にあった丸型4灯ヘッドライトは異形デザインへと進化しています。
2⃣ 1997年モデルの特徴
- ボディ同色のカラードバンパーやサイドスカート
- リアスカート、ハイマウントブレーキランプの標準装備
- 外観と機能性のバランスがとれた“完成形”に近いモデル
夜の慣らし運転と初ドライブの印象
納車は平日の夜。翌朝には通勤に使う予定だったため、軽く慣らしておこうと夜のドライブに出かけました。
走り出してすぐに感じたのは、「試乗時のような荒々しい走り方は自然と控えたくなる」という不思議な感覚。
“所有する”ことで、BMW318iに対する私の接し方が変わっていたのです。
高速道路での100km/h走行も試してみましたが、静粛性と直進安定性は申し分なし。
ガソリンスタンドで満タンにし、戻った頃には「この車と一緒に過ごす日々」への期待が高まっていました。
初出勤と操作ミスの洗礼
そして翌朝の出勤。小雨の中、駐車場を出ようとしたところで初の“輸入車あるある”に遭遇します。
ワイパーを操作しようとして、日本車の感覚でウインカーを出してしまったのです
。焦って戻し、ようやくワイパーを動かしたかと思えば、今度は間欠設定に戸惑い、後続車からクラクションが…。
BMWは左ハンドルベースの設計なので、ウインカーとワイパーのレバー配置が日本車とは逆。慣れるまで数日はこんなトラブルが続きました。
週末ドライブ、マレーシアまでのゴルフ旅
週末にはマレーシアのゴルフ場へ。ゴルフバッグは無理なくトランクに収納できましたが、3セット以上は難しそうでした。
もっとも、シンガポールでは基本的に単独移動が多く、問題にはなりません。
マレーシア側の高速道路では一瞬だけ100マイル(約160km/h)に挑戦。もちろん違反ではありますが、車体はしっかりと路面に張り付き、不安感は皆無でした。
——ああ、これがBMWか、と納得した瞬間でもありました。
BMW318iとの別れ
シンガポールでの単身赴任生活も終盤を迎え、帰国の準備を始めた私は、愛車BMW318iの売却を考える時期になっていました。
再び迎える売却のタイミング
かつて《日産サニー》を売却した際には、2年落ちで160万円の値落ちとなりました。それを踏まえ、「今回も同じくらいの下落幅だろう」と心の準備はできていました。
実際の売却額は、日本円換算で約130万円。新車価格から見れば確かに大きな値落ちではありますが、4年落ちの欧州車としてはまずまずの評価ともいえるでしょう。
価格以上に価値があった体験
数字だけを見れば損をしたと思うかもしれませんが、私にとってこのBMW318iは単なる“移動手段”ではなく、“特別な日常”を与えてくれる存在でした。
- ・地下駐車場から出る瞬間に感じるエンジンサウンド
- ・ジャズの流れる朝のドライブ
- ・異国で感じたドイツ車の走りと質感
- ・そして、ウィンカーとワイパーを間違えたあの日の苦笑い——
すべてがかけがえのない記憶です。
BMWがくれたスポーツセダンという選択肢
この車に乗った経験が、後に私を“国産スポーツセダン”へと導いてくれたことも確かです。
BMW318iは、ただのエントリーモデルではありませんでした。
「大人の遊び心を満たしてくれる1台」——
それが、この車と過ごした日々から得た最も大きな価値だったのかもしれません。
(ライター :ゴル)
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