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世界中がリオのオリンピックで熱く盛り上がった2016年も、夏が終わり、気温の低下と共にスポーツ熱も少し冷め始めていたようではありますが、そこはスポーツの秋、やはりスポーツファンにとっては見逃せないイベントが沢山ありました。

lgf01a201311172200【著作者:taka_suzuki】

プロ野球界では日本シリーズ、テニス界では錦織圭選手の活躍、サッカー界ではワールドカップのアジア最終予選、そして、ゴルフ界では松山英樹プロの活躍などが連日のようにメディアをにぎわせていました。

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そんな11月の或る日のことです。

NHKのBS放送で「F1世界最速への挑戦:ふたりの天才ドライバーの闘い」というスペシャル番組が放映されました。

その番組のタイトルにある”天才ドライバー“の文字を見て、真っ先に私の頭に浮かんだ名は、アイルトン・セナでも、ミハエル・シューマッハでもなく、1960年代に「天駆けるスコットランド人」と呼ばれていたジム・クラークでした。

F1レースとの出会い

F1世界選手権が始まったのは、私が生まれた翌年の1950年、それは純国産乗用車の第一号とされている「トヨタ・クラウン」が誕生する5年も前でしたので、その頃の日本では自動車レースどころか、自動車そのものへの関心も薄かったことでしょう。

それから15年、私が16歳になり、バイクを乗り回すようになった頃の1965年のことです。

250CCのヤマハでスピードの世界の楽しさを知り、インディアナポリス500マイルレースに憧れを持っていた私の耳に或るニュースが飛び込んできました。

「F1チャンピオンがインディ500も制覇!」 そしてそのドライバーがジム・クラークというスコットランド人だったのです。

 

実は当時の私は、アメリカで開催されているインディ500については知っていましたが、ヨーロッパで開催されているF1については殆ど無知でしたので、F1チャンピオンがどれほどの者なのかを知りませんでした。

そこで興味を持ち始めたのがF1レースであり、F1マシンやF1ドライバーでした。そして、ジム・クラークと彼が駆る「ロータスF1」の活躍が続くにつれて、私のF1への関心度も高まっていったのです。

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その結果、オーバル・サーキットをただハイスピードで周回するだけのインディ500への興味は次第に薄れ、曲がりくねったサーキットでのコーナリングテクニックが勝敗を左右するF1のファンになっていったのです。

1965年、言うならば、この年が私とF1レースとの出会いの年なのです。

しかし、私にF1の面白さを教えてくれたジム・クラークは、3年後の1968年にレース中の事故でこの世を去ってしまいました。

それもF1レースの大会と大会の間のF2レースに参加しての事故でした。

彼が32才の若さで亡くなるまでにF1レースで残した記録は参戦8年間で25勝とのことでした。

ホンダの参戦で更なるF1ファンに

F1レースに興味を持つようになった1965年のもう一つの出来事は「ホンダのF1(RA272)」が、その年の最終戦であったメキシコGPで初優勝したことです。

 

その時のドライバーは、あのジム・クラークと同じ1960年にF1デビューしたアメリカ国籍のリッチー・ギンサーでしたが、そのレースでのポールポジションはジム・クラークの方でした。

ドライバーとしてはジムを応援していた私ではありましたが、マシンとしてはやはり日本車を応援したくなり、ホンダの初優勝には思わず万歳をしたのを覚えています。

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それは決して私だけではなく、それがキッカケでホンダのF1、いや、F1レースそのものの人気が日本で高まったことも事実です。

そんなことも影響し、18才になった私はヤマハの250CCのバイクをホンダの軽自動車(N360)に買い替え、車高を下げてジムカーナなどをやり始めたのです。

リッチー・ギンサーによって1965年に初優勝を成し遂げたホンダのF1は、1.5Lエンジンでしたが、翌年からはレギュレーションが変わり、3.0Lエンジンでの戦いとなり、ジョン・サーティースのドライブで活躍を続けたのですが、連戦連勝の快進撃という訳ではありませんでした。

それどころか、ジム・クラークが亡くなった1968年には、スポット参戦のドライバーがレース中に焼死するという大事故もあり、ホンダのF1レース活動は「低公害エンジンの開発」を理由にこの年をもって休止することになってしまいました。

ジム・クラークの事故死、そしてホンダのF1活動休止、その二つの出来事は、結果的に私をF1ファンの世界から暫く遠ざかることになってしまいました。

F1との再会、そして驚きの出来事

私が再びF1の文字に魅かれたのは1976年、27歳になる年でした。

この年の秋、日本で初めてのF1レースが富士スピードウェイで開催されたのです。

私にとっては久しぶりのF1レースであっただけに、懐かしさと共に、夢中でジム・クラークやホンダのF1を応援していた頃のことが蘇りましたが、当然富士スピードウェイにはその名はありません。

それでもテレビの前に座り、目を輝かせて様変わりした各車を見ていました。

 

すると目に飛び込んできた驚きのF1マシン、それが6輪車のティレル(P34)でした。

前輪を小さくすることで空気抵抗を減らし、小さくしたことによる接地面積の減少を前4輪にすることで補うというこの車は、インディ500での活躍で有名なマリオ・アンドレッティがドライブするロータス・フォードに次いで第2位になったのです。

富士スピードウェイでのF1レースはその後も毎年開催されるとのことから、翌年の1977年第2回大会には是非現地で観戦を、と考えていましたが都合で現地には行けませんでした。

しかし、もしも行っていたら、そしてもしもそこで誤った行動をとっていたら、というような事故がレース中に発生したのです。

それは、ジル・ヴィルヌーブがドライブするフェラーリが先行車に追突し、エスケープゾーンに飛び込んでしまった事故です。

そこは立ち入り禁止区域ではあったのですが、警告を無視して中にいた観客や警備員が死亡するという大事故になってしまったのです。

この事故の模様はテレビでも放映されましたので、それを見ていた私はその悲惨さを今でも忘れられません。

 

その事故がキッカケで、その後の10年間は日本でのF1レースは開催されなくなり、それと共に私自身のF1熱も高まることはありませんでした。

ホンダの快進撃で再びF1ファンに

日本でF1レースが再開されたのは10年後の1987年、場所は鈴鹿サーキットでした。

そしてその後は毎年日本でも開催されるようになりましたが、20年間程は富士スピードウェイでの開催はありませんでした。

鈴鹿サーキットと言えばあのホンダのホームグラウンドであることは言うまでもありません。

そのホンダは1980年代には、1.5LのV6ターボエンジンをウィリアムズやロータスに供給することでF1活動を再開していました。

そしてその驚異的なパワーによって快進撃を続けたウィリアムズ・ホンダとそのマシンを巧みにドライブするネルソン・ピケによって、1987年にはコンストラウターズタイトルとドライバーズタイトルの両方を獲得しました。

丁度その年からはF1のフルタイムドライバーとしては日本人初となる中島悟がロータス・ホンダで参戦していたこともあり、日本でのF1人気も最高潮となっていました。

 

当然ですが、私のF1への思いも再燃し、日本人ドライバーによる日本のホンダの優勝を心から願っていました。

残念ながらその願いは叶いませんでしたが、その後の数年間は、あの伝説的なドライバー、アイルトン・セナやアラン・プロストなどの活躍によって「Powered by Honda」の全盛期となったのです。

 

1988年にホンダが新たにエンジンの供給を行った「マクラーレン・ホンダ」での、セナとプロストの活躍、そしてチーム内バトルについては、これまでに多くが語られていますが、何と言っても私はセナを応援していました。

その理由は、彼がマクラーレンに移る前にはロータスで中島悟のチームメイトであり、その頃から「Powered by Honda」を愛してくれていたからです。

そんなセナは、あのジム・クラークをも上回るF1参戦10年間で41勝と言う記録を残し、1994年にレース中の事故で他界してしまいました。それによりまた、私のF1への情熱も下がってしまったのです。

初めてのF1レース生観戦

時が流れて2008年、私は仕事の関係でシンガポールに住んでいました。

そしてそこで久しぶりに、本当に久しぶりに「F1」の文字を目にすることになりました。

史上初のF1ナイトレース「2008 F1 シンガポールGP」の開催です。

自分が住んでいる都市で行われるF1レース、自分がいつもショッピングでドライブしている公道でのF1レース、こんな機会を逃すはずはありません。

1965年に初めてF1の存在を知ってから43年、3日間で行われたフリー走行、予選、そして決勝の全てのチケットを購入して初めての生観戦でした。

 

アイルトン・セナの事故死以来遠ざかっていたF1の世界です、当然良く知っているドライバーはいない、と思いきや、1987年にウィリアムズ・ホンダでドライバーズタイトルを獲得したあのネルソン・ピケの名が?そんなはずは無い、と見直すと「ネルソン・ピケJr」そう、彼の息子だったのです。

また、唯一の日本人ドライバーとしてあの中島悟の息子の「中嶋一貴」も参戦していました。

私も59才になっていましたので、つくづく時の流れの速さを実感させられた瞬間でした。

このレースには当時大活躍していた「マクラーレンのルイス・ハミルトン」、「ルノーのフェルナンド・アロンソ」そして「ホンダのジェンソン・バトン」などが参戦していましたが、最も興味深かったのはトヨタのF1参戦でした。

結果的にはトヨタF1は第4位、日本人ドライバーの中島は第8位、ホンダのジェンソン・バトンは第9位、そして優勝はルノーのフェルナンド・アロンソでしたが、F1レースでトヨタ、ホンダ、中島の「頑張れ日本!」を十分に楽しめたF1初観戦でした。

そんな「Powered by Japan」も、世界的な景気後退によってホンダが2008年、そしてトヨタが2009年を最後にF1の世界から撤退することになってしまいました。

 

マクラーレン・ホンダの復活と共に

2016年11月、NHKのBS放送番組「F1世界最速への挑戦:ふたりの天才ドライバーの闘い」で紹介されていた“天才ドライバーと”は、スペインのフェルナンド・アロンソとイギリスのジェンソン・バトンでした。

この番組は、2015年にマクラーレン・ホンダとしてF1レースへの復帰を果たしたホンダの技術陣と、それをドライブする天才ドライバーの二人をフォーカスしたものでしたが、二人とも私がシンガポールGPで直接見たドライバーだけにとても興味深いものでした。

彼らは共に幼い頃からカート・レースで活躍し、F1ドライバーになってからもその実力を発揮して、F1の歴史上32人しかいない年間チャンピオン経験者の二人としてその生い立ちや、ホンダとの関わりなどが紹介されていました。

 

 

特に印象的であったことは、アロンソの父がマクラーレン・ホンダで大活躍したアイルトン・セナに憧れ、当時カートで頑張っていた息子が将来マクラーレン・ホンダをドライブする日を夢見ていたとの話です。

そしてそんな父の夢を実現したアロンソが「自分のF1のキャリアがぐるっと一周して原点に戻ってきたみたい」と語ったことです。

ホンダの本拠地鈴鹿サーキットで開催された2016年のF1日本GPで、復帰2年目のマクラーレン・ホンダはアロンソが16位、バトンが18位と必ずしも好成績ではなかったのですが、その後のアメリカGPではアロンソが5位でバトンが9位と大躍進をしました。

しかし、私にとって何よりも嬉しかったことは、このテレビ番組が、私に16才の頃のF1との出会い、そして亡くなったジム・クラークやアイルトン・セナの思い出を鮮明に蘇らせてくれたことです。

F1レースに夢中になり、そしてF1への熱が冷め、またF1への思いが高まることの繰り返しで過ごしてきた50年間、2017年のマクラーレン・ホンダとアロンソ&バトンの活躍を期待して、今はもう一度夢中になってみようと思っています。

(ライター ゴル)

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